お墓はパーソナル・パワースポット2016-3-17(その5) [思索]
お墓はパーソナル・パワースポット2016-3-16(その4) [思索]
お墓はパーソナル・パワースポット2016-3-15(その3) [思索]
私は男4人兄弟です。父親が菩提寺にある我が家のお墓を建て替える話をしていた頃は終戦後のことで、私はまだ小学生でした。ですから、その時父は40歳台の初めだったろうと思います。その時の記憶に一番残っていることは、棹石に彫りつける文字の原稿を自分で筆をとって書いては書き直しをしていたことです。無論、正面の文字は『並木家の墓』でした。そして、両側面、裏側にも色々と書きたいようで小さい筆文字で何やら書いていました。だいぶ後になって、それらの彫られた文字を読むようになってわかったことは、父は兄弟姉妹が多かった中の出征して戦死した、私からすれば叔父の記録が彫ってありました。そんなことから、家族でお墓参りに行く時の私のお参りの対象はその叔父であることもあった気がしています。
その頃一緒にお墓参りをした家族であった祖母も父も母もやがて亡くなり、そのお墓に祀られています。実は、10年程前に母が亡くなった頃我が家ではお墓のことで大きな変化がおきました。
(つづく)
お墓はパーソナル・パワースポット 2016-3-14 (その2) [思索]
お墓がパーソナル・パワースポットと考える根拠は、私自身これまで何回も、何10年にわたりお墓参りをして体験した事を通して感じて来たことがあるからです。お墓参りは必ずしも血縁関係のある人だけでなく、著名人の墓に目的をもって、或は旅先で訪れお墓参りするケースもあったりします。後者の場合はパーソナルという意味合いがやや薄れるのかも知れませんが、前者のケースが私の云うパーソナル・パワースポットなのです。墓前に手を合わせる行為から、たちまち私の中ではそこに祀られている故人達のイメージが、次々に脳裡をよぎり始めます。瞬間的に父であったり、母であったり、祖母や祖父の顔もうかびます。その時の私の思いを、以心伝心で交信します。自分が悩んでいたり、考えていることとか、色々な報告や場合によっては相談事もあったり、短い時間での話しかけを通して自分なりに納得した気持ちになれます。これはすごいことだと思っているのです。多分まわりは私が一体何を話しているのかわからないと思います。ですから尚さら、本気で対話出来てしまいます。ここでのミソはどんな内容の対話であったとしても声に出さない、それこそ以心伝心ですから満足感は大いにあるわけで、お参りした後は実に清々しい気持ちになれてパワーをもらった気持ちになります。即ち、私のパーソナル・パワースポットとしてお墓参りは私にとって大いに意義のあることなのです。(つづく)
お墓はパーソナル・パワースポット 2016-03-12(その1) [思索]
最近よくパワースポットという言い方を耳にします。私の理解としては、或る場所がそこを訪れる人に何らかの影響を与え、それにより力を得ることが出来るという場合に、そこがパワースポットと云われているのでしょう。その力とは人により、様々かも知れません。或る人は霊能力と思ったり、或る人は病気を治せたと思ったり又或る人は勇気や元気をもらったと思ったとか、普段ではあまり変化のない状態が、その場所に行ったことで何とはなしに今までとはちがった力を得たと思うような場所がいつか多くの人に伝わりパワースポットと云われるのではないかと思うのです。
ここで、パーソナル(パワースポット)としているのは不特定多数ではなく、限定的な人達のみが個人的にパワーを得ることが出来る場所があると感じられる場所はいつも私が提唱して来たお墓のことなのです。春のお彼岸を前にこのことについて書こうと思います。(つづく)
最近気になったこと 2012-10-02 [思索]
文化(Culture)という言葉は日常色々な場面で使われ、とても便利です。
しかし、意味の理解の度合いは必ずしも一致していない時もあるかもしれません。
それで良い場合が大半なのでさしたる問題視することはありません。
私がここで持ち出した文化のテーマは数々の文化の中の一つ“葬送文化”のことです。
妄想の世界に踏み出したついでに、この話をして見ます。
葬送の文化というからには大層立派な文献を紐解き解説を加えるのかと構える方もいるかもしれません。
はじめに書いたように葬送の文化という言葉の裏に対する理解度の違いが生じる例の一つで、
学問的にどうなのかという側面からの論証ではなく、
一般に私達の間でこの言葉を発する時に互いに受け取る内容での話をしたいのです。
文化とは人により形成された物心両面の成果と説明されています。
形成された文化は不変に継承されていくと考えますが、
時代の変遷の中で少しずつ何かが加わり、何かが減りながら出来上がっていくのでしょう。
ところが或る時、或る事情でその文化が覆ったりすることもあります。
思い浮かぶのは、西欧のルネッサンスとか明治維新とか中国の文化大革命とか、
同じ中国の改革開放路線とか、それまでと違う新しい文化や文明が出来るわけです。
となると、文化は絶対不変とは言い難いものと見る事も出来るわけです。
本題に入ります。
葬送の文化という時、日本人が行うしきたりは場所の違いはあっても、
一定の共通した行事として伝わっています。
ここでは葬送の一つの形としての埋葬について考えてみます。
私の知る限り、日本では土葬・火葬の違いの中にも、遺体、遺骨を土中に埋葬する文化があります。
埋葬の文化と思われて来たものに、それが新たな文化が形成されていくのだろうかという事を考えています。
文化とはその時代の人間によって形成されるというのであれば、
その新しい葬送の文化を受け入れることしかないのでしょうか。
私の頭の中では、遺骨は土中に埋められてそこが明確に故人の墓地となり、
絆をもった生者が故人を供養することを通して、故人と対話し自らを思う場所としてとらえて来ました。
今の時代、散骨に象徴されるような埋葬の原型が変わってしまうのかと見える現象が起きています。
全ての日本人が埋葬の文化を変えようとする試みに賛同しているのだろうか。
墓地・墓所についての概念が変わってしまうやり方として、新しい葬送の文化が生まれるのかという問題です。
これは非難すべきこととしての問題提起ではありません。
これまでの葬送文化が本当に変わるのかどうか、
私の目の前で起きている色々な方法による埋葬の実態をどう考えるべきか、という素朴な疑問を持っているのです。このテーマは墓石に携わる者の一人として最近とても気になる事なのです。(おわり)
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最近気になったこと 2012-10-01 [思索]
不断の努力という言い方がありますが、これには時間の経過も必要です。
商売をしていると、どうしても我が利益を優先してしまい相手の弱点に付け入る戦略が重視され、
事業は結果なのだという物の見方に立ってしまいます。
これでは相互依存の関係は望めないでしょう。
相互依存の考え方の基本として双身が一体という概念が必要で、
相手の弱みは己の弱み、その弱みを埋めるにはどうすればよいかが考えられるかなのです。
長い時間軸の中、その必要な場面でその考えを繰り返し行うことがやがて信頼が生まれ、
相互依存に繋がるのです。
この考え方を持って中国と付き合う事は問題解決に繋がると信じています。
しかし、物事には思いがけぬことが起きることがあります。
この事は既に起きてしまったことで実証されています。
これにはどう対処すればいいのでしょう。
例えば商売に限ったことでも
1)主力取扱い商品の需要が或いは供給が突然の如くなくなる。
2)仕入先が前触れもなく倒産するとか事業を止める。
3)仕入価格あるいは販売価格が急激に高騰或いは下落する。
4)法律の規制により、商売が出来なくなる。或いは不都合が生じる。
5)通貨が不安定で円の価値が異常変動する。
6)自然現象や政治変動などで生命に影響が生じる。
等々数えあげればきりがありませんが、もしこの様な思いがけぬことが起きたら本当に参ってしまいます。
冗談として、 収まる中であればよいのですが、商売の根底を覆す事態をどこまで想定するか、
心配症になりすぎを笑われそうな話になってしまいましたが、
実のところ未だにこれという答えを持ち合わせていないのです。
人により、能力の差により対応策は同じであろう筈もなく、私なりにやるしかないのでしょう。
最近世の中のあちこちで勃発している事故や事件が、瞬時にニュースとして伝わります。
それにネットによる伝達の広がりである一つの情報が集団行動力に移行することも実証されています。
今更のようですが、今の世の中は何とも変化が速く、私がこの事業を始めた35年前とは明らかに違います。
その間、変化に合わせてそれなりの対応をして来たつもりでいますが、
これから先の変化に正しく対応できるのか、私としては大丈夫と言い切れないのです。
ケセラ・セラ(なるようになる)と腹を決めて立ち向かうことも選択の一つかもしれませんが、そうもいきません。
何らかの対策は必要です。
その“何らか”とは何なのかを考えなくてはならないのです。
先人・賢人はどうしたのだろうか。世の成功者はどの様に考え、やって来たのだろうか。
凡人と賢人の考え方の違いはどこにあるのか。
起きている現象のどれをとっても先行き不透明としか言えぬ今、
じっとしているとこんなことが脳裏を駆け巡ります。
そんな訳で、今日は妄想の世界入ったようで、おかしな話なってしまいました。(つづく。。。)
最近気になったこと 2012-09-30 [思索]
墓石に絞ってのことですが、このところの反日デモの激化が
墓石業界にどの様な影響を及ぼすのかというテーマについて考えて見ますと、
全く問題がないとは言えませんが今のところ(9月27日)、いつもと変わりなく取引を続けています。
中国の墓石工場は元々中国の石材産地である福建省を中心に集中しています。
ここでは地元の原石の採掘企業をはじめ、たくさんの石製品生産工場に数多くの労働者が働いています。
全てが順調にとはいきませんが、環境や賃金等色々問題を抱えながらも石材業を営んでいる地域なのです。
仮にこの人達に行政から何かの圧力がかかった時に困るのは私達買手のみならず、
彼らにも不都合な事態となるのは明らかであります。
この地のこの人達との取引に於いては、政経分離の原理が働いているとの印象が強く、
人民の生活が第一の原則が守られていると思っています。
とはいえ、今回の問題とは別に地域開発が優先されている観があり、
鉱山閉鎖、工場強制移転、操業停止という動きがあるのも事実です。
私は日中の石材業界は相互依存の関係を構築し維持することが重要で、
その為には互いに相手の立場を尊重して努力をすることが必要と考えて、
具体的に行動をしなくてはならないと思っているのです。
かかる現実の中で石材業界のこれからを考える時、これは単に日中友好という大義のためだけでなく、
日中双方が本気で生業を守り、生きていくためという根本を認識してのことであります。
(つづく。。。)
最近気になったこと 2012-09-29 [思索]
進んで行くことになるとされています。
これで税収増が計れるという見通しに対し、消費が落ち込み景気は更に悪くなり、
税収は減るという意見もある等、景気の見通しは困難です。
消費税の5%から8%、そして10%と上昇することが私達の商売にどう影響するかであります。
私達のように輸入墓石を取り扱う者にとって消費税の先払いは 痛くない筈がありません。
卸売価格に添加出来るか出来ないかも市場に関係する部分が大きく、
需要が減ったり卸売業者の資金繰りに影響が出るとすれば、
業界にデフレが蔓延するかもしれません。
更には輸入先の中国からの影響のみならず、中国への影響も同時に考えねばなりません。
これまで書いて来たように墓石は中国で作られ輸入します。
そのシェアも80~90%という構図は他の商品に劣らず、経済問題の領域を超えて
政治的、社会的問題とも大いに係ることとなり、各方面から心配されるところです。
中国との関わりについて大ざっぱに整理して見ますと、元々は安い労賃の活用が原動力となり、
世界の先進国からの進出があり、中国製品が世界に出回る中で、
中国の経済規模も大きくなり人々の生活水準も上がり、購買力も増える中、
中国自体大市場化して来た事実があります。
従って中国が年々GDPの伸び率が2桁台であったものが減速したと言われたり、
人件費の高騰が止まらない等、中国に対する見方・考え方にも変化が起きています。
つまりは中国を加工工場としての役割や市場としての役割をどう見るかによって
夫々の企業の方針に重大な影響を及ぼしています。
この見方は或る意味、当然の事で政治的見地とは別にして考慮する事柄であります。
ところで、私達自身の事業のことです。
通常はこちら側からの価値判断だけで影響の有無やその度合いを考えるのですが、
視点を中国の内側にして眺めて見ると今までとは違った風景が見えて来ます。(つづく。。。)
最近気になったこと 2012-09-28 [思索]
このテーマは私の周りで様々に係っていて、
一言で済ませることは出来ませんが、 景気について今最も気になっているところです。
新聞、テレビの報道でも景気についての論調が出ます。
当然の様に地球規模でとらえられることも多く、 私達の商売や生活が世界との係りが深いことを知ります。
いろいろな情報の中から、私などは出来ないまでも自らに係る景気の現状や先行きについて、
判断しなくてはなりません。
実は私の事業経営の観点からすると景気の良い悪いの他に、
それによって人々の人生観に変化がありそうなことも考えなくてはならないのです。
デフレが続き、消費が不活発となれば、これまで無理をしてでもお墓を作らねばという人が、
出来ることなら金を掛けずにすませたいという気持ちになるという傾向があるという報道がなされることに対して、
どう考えれば良いのか、どう対処すれば良いのかがとても重要なテーマとなって来ます。
不景気な時の一時的消費動向ではなく、
お墓はなくても良いというような人生観に変えてしまうのかということも考えなくてはなりません。
経済問題というテーマにしては余り偏り過ぎてしまうのは分かっていても、
私の商売のことについてはまず、考えてしまいます。(つづく。。。)